四谷四丁目HP作成委員会
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■四谷四丁目ホームページ立ち上げ10周年

今年(平成28年)、四谷四丁目ホームページは立ち上げて10年が経ち、11年目に突入しました。 四丁目の情報発信のポータルサイトとして、また、街が辿ってきた歴史の発掘、保管場所として、微力ながら地道に活動してまいりました。 そんな節目の年に、今までの活動が報われるような、とある問い合せが当ホームページにあったのです。

■三島由紀夫と四谷四丁目

それは「佐藤さん」という方からの問合せでした。件名は「馬場照子さんを紹介してほしい」というもので、内容は以下のようなものでした。 

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タイトル:奈良に住んでいる佐藤秀明と申します。福寿会の馬場照子さんをご紹介いただけないでしょうか。

と申しますのも、私は30年以上、三島由紀夫研究に携わっていて、三島についての本も出し、全集や雑誌に論文や伝記的調査の報告を書いているのですが、三島由紀夫の生誕地がいまだ分からずにいます。
先日も、「週刊新潮」から、捜し物や尋ね人などを載せる「掲示板」というページに何か書きませんか、と言われたのでこんな文章を掲載してもらいました。
「本誌「掲示板」には、かつて三島由紀夫も寄稿しました。新潮新書『三島由紀夫の言葉 人間の性』を編んだので覚えています。ところで、三島の生誕地がはっきりしません。現・新宿区四谷4丁目○番。新宿通りから○○○の方へ入った辺りです。大正14年から昭和8年までいました。本名は平岡。「坂の上から見ると二階建であり坂の下から見ると三階建」(『仮面の告白』)の大きな借家でした。間接情報でも構いません。御教示を。(近畿大学教授)」(一部省略)
週刊誌を見た知り合いの編集者が、「四谷四丁目」というホームページがあって、そこで馬場照子さんが、少年の頃の三島由紀夫を見たと話していると教えてくれました。

何としても、三島由紀夫の生誕地を明らかにしたいと思っています。
決して怪しい者ではありません。大阪の近畿大学で文学の教師をしております。三島由紀夫研究に新しい知見をもたらすために、なにとぞご協力をお願いいたします。
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馬場照子さんという方は、以前、町内の「福寿会」という会の方々に取材をした時の3人の内のおひとりで、その時の取材時に「幼いころに三島由紀夫が学校へ行く姿をよく見た」とお話しされていたのです。 佐藤さんからのメールは相当に熱意がこもっていたので、すぐさま、HP委員のメンバーにこのメールを添付して意見を募りました。 すると、意見は皆、同じで、「これは重要な史実になり得る貴重な取材になる、私達の出来る限りの事はやりましょう!」、という事でした。 

私たちは四谷四丁目町会の直属の委員会なので、まずは坂部町会長にお伺いを立てると、「是非、事実を明らかにしてほしい!」と、快諾を得られました。 坂部会長も三島由紀夫の生誕地については以前より興味があるようでした。(当初は坂部さんのお宅が三島の生誕地ではないかとの憶測があった)


■三島由紀夫について
三島 由紀夫
本名 平岡 公威(ひらおか きみたけ)
大正14年(1925年)1月14日  東京府東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷4丁目)に生まれる。
昭和6年、学習院初等科に入学。 
昭和16年には「花ざかりの森」を書き上げる。当時16歳。 昭和19年には高等科を卒業、東京大学法学部に推薦入学した。 大学卒業後、大蔵省に入省するも9ヶ月で退職。 昭和24年に「仮面の告白」を発表。その後も執筆活動に勤しむ。
昭和33年、川端康成夫妻の媒酌で杉山瑤子(ようこ)と結婚。
昭和45年、独自の防衛組織「楯の会」のメンバーと共に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地(現、防衛省)の総監室を占拠、籠城し、バルコニーでの演説の後に自決。享年45歳。

《代表作》
「仮面の告白」(1949年)
「潮騒」(1954年)
「金閣寺」(1956年)
「鹿鳴館」(1956年)
「鏡子の家」(1959年)
「憂国」(1961年)
「サド侯爵夫人」(1965年)
「豊饒の海」(1965年-1971年)

《主な受賞歴》
新潮社文学賞(1954年)
岸田演劇賞(1955年)
読売文学賞(1956年・1961年)
週刊読売新劇賞(1958年)
フォルメントール国際文学賞第2位(1964年・1967年)
毎日芸術賞(1964年)
文部省芸術祭賞(1965年)
フランス・ツール国際短編映画祭劇映画部門第2位(1966年)

1963年、1964年、1965年度のノーベル文学賞の有力候補に入っていた事が後に判明する。


父親の梓(あずさ)は、農林水産局長までいったエリート官僚、母親の倭文重(しずえ)は漢学者の娘、これだけの頭脳明晰な家庭に生を受けた三島由紀夫ですが、身体は生まれつき非常に弱く、一時は自家中毒により命を落としそうになる程であったそうです。 また幼い頃からの祖母の過保護ぶりは酷かったようで、生活、遊びにはかなりの制限があったことが資料から読み取ることができます。 そんな生誕から幼少期の8年間を我が地元、永住町(現、四谷四丁目)で過ごし育ったというわけです。 

■期待膨らむ新資料

依頼主の佐藤さんのお話では、山中湖にある「三島由紀夫文学館」にて新たな資料が見つかり、その中のひとつ、三島が15歳の時に書いた「紫陽花」において、幼い頃に近所の「山崎照子」という女の子とよく遊んだと書かれています。(三島は小さ頃、祖母のめがねに叶った女の子とだけ遊んだといわれている) 

《近所の山アといふ家の照子と云つたか、健康さうで、頭のよいので評判だといふ少女がよく家に上つて、おまゝごと、お家ちごっこ、正月には羽子つき双六、歌留多といふ調子、一寸大きな音を立てたり、安玩具(おもちや)の蒼蠅(うるさ)い音をさしたりすると、早速女中がとんで来て、おばあさまがお止しなさいと仰言つてらつしやいます……それはへ静かな遊びだつた。》

佐藤さんは、四丁目HPで取り上げていた「馬場照子」さんこそが、この山崎照子ではないかと直感し、問い合わせをしたというわけです。 なるほど、そう聞くとそれはかなりの手応えを感じずにはいられない一致です。 早速、我々は事の真相を聞くべく、馬場照子さんに連絡を取ってみることにしました。  馬場照子さんは、HP委員会のメンバーでもある根岸氏の叔母に当たる人で、今回のヒヤリングも根岸氏にお願いして聞いてもらいました。 

数日後、返答のメールが根岸氏より届きました。 答えはというと、、、まったくの別人という結果でした。 馬場照子さん曰く、山崎照子さんの名前も全く記憶になく、平岡家(三島由紀夫の本名)の場所も、そのあたりには殆ど行かなかったので分からない、という答えでした。  今回は佐藤さんの依頼というのはもちろん分かっていますが、我々もかなり期待していたので、落胆の色は隠せません。 よく考えれば馬場照子さんの旧姓は根岸という事実も分かっていました。

ただしかし、根岸氏のメールはここでは終わっていませんでした。


■思わぬ急展開

根岸氏のメールの続きです。

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ただ今日、母(根岸登志子)より吉報です。
母がいつも通っている、地元の鈴木眼科の医院長(80才前後)が、昔三島由紀夫の家の近くに住んでて、いつも三島由紀夫や家の話をしてくるので、三島由紀夫のことならこの先生に聞くのが一番ではないかと、母が話しておりました!
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鈴木眼科というと、地元の人は誰でも知っている有名な眼科です。 その先生がまさか知っているとは。 まさにこれは地元の草の根調査の成果でしょうか。 普通に調べていては、なかなかたどり着かないと思います。 すぐさま、根岸氏に鈴木先生に確認をしてもらった所、まさしく三島由紀夫の家を覚えているらしく、場所も特定できるという返答を頂きました。 これは大きな進展です。 直に場所を特定できる人物を発見したわけですから。
 

■三島由紀夫と神輿

三島由紀夫の代表作「仮面の告白」。 これは三島由紀夫の云わば自伝的な小説で、幼い頃の描写もいくつか書かれています。 その中の一節。

《 ――その光景はかうだつた。  あるとき夏祭の一団が私の家の門から雪崩れこんだのである。
 祖母は仕事師を手なづけてゐて、足のわるい自分のために、また孫の私のために、町内の祭の行列が門前の道をとほるやうに計つてもらつた。本来ここは祭の道順ではなかつたが、仕事師の頭の手配で行列は毎年多少の迂路を敢てしながら、私の家の前をとほるのが習はしになつた。私は家の者たちと門の前に立つてゐた。唐草模様の鉄門は左右に開け放たれ、前の甃にはきよらかに水が打たれてゐた。太鼓の音が、澱みがちに近づいてゐた。》

この夏祭りとは、まさしく四谷の例年行事である須賀神社例大祭の事だと思われます。 「仕事師」とは、おそらく四谷四丁目地区の町火消しである四番組の方々の事でしょう。 四谷のお神輿は、「四谷担ぎ」という独特の担ぎ方をします。 通称「八方担ぎ」といって、前後左右の担ぎ手、全ての人が神輿に背を向けるように寄っかかり、せり上げる事で神輿を上げるのです。
全方位から力が加わるので、神輿はふらふらとするばかりか、どこへ向かうかも分かりません。 昔の写真などを見ると道路脇に停めてある車に足を掛けて神輿を押し返す風景なども残っています。 三島の家に雪崩れこんだのも、こんな担ぎ方をして勢い余って乗り込んでしまったという事でしょうか。 しかしこの頃からの祭礼を今も我々が守り受け継いでいるんだと思うと、本当に感慨深いものがあります。 

後に佐藤さんにお聞きした話によると、三島はこの時の光景が相当強烈に焼き付いたようで、31歳になってボディビルで体を鍛え、人前に裸の上半身をさらしても恥ずかしくない筋肉を身につけると、まず最初にやったのが神輿担ぎで、それを「週刊新潮」が写真に撮り、グラビアで載せたのだが、実は、三島が「週刊新潮」に頼んで取材をしてもらったというのです。 四丁目の神輿が三島由紀夫の人生に大きく関わってたのは紛れも無い事実なのです。

■佐藤さんとの現地取材

5月の日曜日、四谷四丁目の喫茶店「四八珈琲」にて、HP委員会は初めて佐藤さんと対面を果たしました。 佐藤さんは、東京で学会が開催されるタイミングで我々との時間を作って頂いたのです。 残念ながら証人となる鈴木先生は所用の為に欠席となりましたが、これは後日、HP委員会として改めて鈴木先生を取材して確認を取るという形になりました。 
当日は町会長である坂部さんとHP委員会の皆で、佐藤さんをお迎えしました。 佐藤さんは連日のお仕事でお疲れのご様子でしたが、いざ現地での確認作業になると、意気揚々とされて、いろいろなお話をしていただきました。 

[5月の日曜日、喫茶店「四八珈琲」に於いて]

HP委員  :今回このような運びとなって、我々としても大変光栄に思っております。 確定とまでは行きませんが、だいたいの見当はついたのではないでしょうか。

佐藤さん  :でも、ほぼ確定できたのではないかと思っています。 私の方で三島由紀夫が自分の生まれた家の事をどんなふうに書いていたかを集めてきました。 多分これで全部じゃないかなと思います。

HP委員  :ありがとうございます。 以前から、三島由紀夫の本の後ろに四谷四丁目生まれと書いてあって、それがどこなんだろうと謎だったのです。 地元でも三島由紀夫が四丁目で生まれ育ったとは知らない人も多いと思いますよ。

佐藤さん  :三島由紀夫はああいう死に方をしたものですから、ある意味、タブー視されたところはありますよね。

佐藤さん  :この資料にある、通称「沼尻地図」なんですが、以前私が四谷の新宿歴史博物館にて見つけたものなんです。 この地図の新宿駅周辺の部分が偶然、歴史博物館に展示されていて、この地図のことを聞いたら、それは沼尻さんという方が作った沼尻地図と呼んでるものですというので、それを探し出したんです。

佐藤さん  :この地図でいう「○○○さん」宅が、おそらくそうではないかと思われるんですね。

坂部さん  :ここの道は田安通りですよね。 この道は先の方へ行くと急な下り坂になっているんです。 戦前ですけども、市ヶ谷に監獄があって、警察が囚人を監獄へ入れる時に、昔ですから赤い服を着て編笠の格好で結かれて、市電の停留所を降りてからこの道をずっと連れられてくるのです。 この道の先は靖国通りですけれども、その先の高台にはお寺さんが1軒だけあって、あとは何も無かったのです。 あと見えるのは監獄だけです。 その風景を見た時に囚人はホロリと涙するというのです。 だから昔、我々はあの坂を勝手に「なみだ坂」と呼んでいたんですよ。

佐藤さん  :三島由紀夫の一番最初の小説がありまして、12歳くらいに書いたものなんですが、母親がそれを読んで、この子は天才なんではないかと思ったそうです。 その「酸模(すかんぽう)」という作品の中で、小さいころ両親に連れられて、不思議な塀のある所に出た、とあるんですね。 多分これは先程の話の市ヶ谷刑務所ではないかと思います。 そこでひとりの囚人と出会うという話なんですよ。 やっぱり土地の「なじみ」というのがあったんでしょうね。

HP委員  :そうですね。 地元の当時のお神輿も、その坂を登るか下るかしたのだと思います。 三島由紀夫の本「仮面の告白」にも書かれているように、その渡行中に家の庭に雪崩れ込んだのではないかと思います。

佐藤さん  :そのことは三島はよっぽど印象的だったようで、その「仮面の告白」の他にも、小さい頃にやっぱり書いているんですよね。 そこに須賀神社の祭りだと書いています。 大人になってわざわざボディビルをやって、体を鍛えてから初めてやったのが神輿担ぎですからね。 相当思い入れがあったのだろうと思います。

HP委員  :そこまでのものだと、子供の頃はやっぱり毎年のお神輿は見に来ていたでしょうね。

佐藤さん  :三島は担ぎたかったのだと思いますよ。 担ぎたいけど、体が小さく貧弱だったので出来なかったのです。

坂部さん  :三島由紀夫は何歳まで住んでいたのですか。

佐藤さん  :ここで生まれて8歳まで住んでいました。 学習院に通っていて、通っている途中で引っ越しました。 生まれてから、おばあさんに可愛がられたのですが、それがあまりにも溺愛で、教育上良くない、なんとか引き離したいということがあったのですが、結局引き離せないで、中学に入るときになって親元に戻るっていう形になるんです。 引っ越したのは、おじいさんが事件を起こして借金をそうとう背負っていたみたいですから、その関係かもしれません。

HP委員  :それは「仮面の告白」にも書いてありましたね。

佐藤さん  :「仮面の告白」に書いてあることは、殆ど事実ですね。 その借金も今のお金で6億くらいになるんじゃないかと思われます。 莫大な借金を抱えつつ、派手な生活をしている、そういう家だったようですね。

佐藤さん  :おじいさんは当時、原敬内相を慕っていて、その原が選挙に出る際に、当時の選挙といったらやはりお金なわけで、子分である三島のおじいさんは樺太庁長官に任命されるのですが、その使命といったら樺太の開発をして、お金をつくって政党に流すといった事だったのでしょうね。 ところが、その事でいろいろと不正が発覚してしまう訳ですが、おじいさんはそれを全部自分でかぶってしまったようです。 そういう正直な所があって、結局、失脚し、借金は全部自分が背負い、原敬との関係は表に出さず、責任を取って挫折してしまったのです。 だからそこで挫折しなければ、結構な地位には行ったと思いますよ。 新聞を見てますと、満州鉄道の総裁の候補に名前が挙がったこともありますし。 満鉄総裁をやったら次は大臣だろうと、そんな道筋は見えたのですけれども、それで失脚してしまった。 その事があって奥さん(三島由紀夫の祖母)は、ちょっとおかしくなってしまったのではないかと思うんです。 借金を背負いながらも派手な生活をしてしまう。 そんな中、内孫で初孫でもある男の子、三島由紀夫が生まれたわけですから、それを溺愛してしまったわけです。

HP委員  :すごい話ですよね。

佐藤さん  :三島が生まれたのは、「仮面の告白」にあるとおり、ここで生まれました。 実家に帰って産んだとか、病院で産んだとか、そういうことではありません。 ですからここが生誕の地なのです

坂部さん  :出生届などは出されているんでしょうかね。

佐藤さん  :出していると思います。 平岡家(三島由紀夫の本名)の戸籍を辿っても、生誕の地は判らないと思います。 住所の四谷区永住町2番地としか出てこないでしょう。 (現在は永住町が四谷四丁目となり、もとの永住町2番地には何件も家があり特定できなかった)

HP委員  :じつはこの辺は意外と大きな家が多いのですが、なぜそのような邸宅が集まったのでしょうかね。

坂部さん  :うちの街が永住町になった時に、木賃宿街(きちんやどがい)が多くできたんですよ。 というのは、甲州街道をこちらへ来た時に、まずお金のあまりない人などは、まず新宿付近の宿へ行って、そこへ入れない人はこちらへ来たんですよね。 ですから私がこちらへ来た当時は、お正月になると漫談師がそのような宿に泊まっていましたよ。 ですから昔は貧しい人もかなりいたんですよ。

佐藤さん  :木賃宿などは、やはり新宿通りの近くに出来ていたようで、横丁の奥の方は大きなお家があったようですね。

HP委員  :以前の取材で、表通りは商店街で、少し裏に入ると木賃宿など があったと聞きましたね。

佐藤さん  :引用したものを持ってきたのですが、安藤武という人の「三島由紀夫の生涯」という本がありまして、そこにはこうあります。

■生誕の地――安藤武『三島由紀夫の生涯』(夏目書房、1998・9)
p.7《三島由紀夫は都会っ子であった。
生まれは四谷駅方面から来て甲州街道大木戸新宿四谷四丁目の交差点右一つ手前の角で、馬面の女が馬肉を売っているところを曲がる。道を挟んで両隣にやり手の老婆が営業している木賃宿が並び、その宿は新宿界隈で夜の商売をしているゲイ・ボーイの定宿で、一種の男娼窟(だんしょうくつ)を形成していた。その横丁は学習院初等科を卒業するまでの通学路であった。中等科にあがると同時に渋谷大山町に転居したが、祖父母は引っ越さずにいた。三島は祖母の言いつけで週末には祖母の家に泊まりに行っていた。色白の可愛い美少年の彼は、その道を通るたびに男娼に冷やかされたりしたのではないだろうか。
その頃の地元の人達はこの横丁を豚屋横丁と言っていた。風が吹けばゴミが舞い上がり、雨になれば道はぬかるみ、横丁に並ぶ住居は傾き、建物も朽ちるに任せた。その豚屋横丁の中頃の狭い急坂の路地を左に折れた奥に二階建ての借家が平岡家であった。》

佐藤さん  :さっきも言いましたが、平岡家は祖父母も、三島が8歳のときにここから信濃町に引っ越し、それから渋谷の大山町に引っ越します。ですから安藤さんの記述には誤りもあるのですが、それにしても具体的に書いています。この豚屋横丁というのは、やはりそう呼ばれていたのですか?

坂部さん  :はい、そうです。 今は田安通りと呼ばれていますけれど、むかしは豚屋横丁と呼ばれていました。 というのは、入り口に肉屋さんがあったんです。 そこで肉を売っていたのですけど、昔は肉と言えば豚か鶏かといった事だったので、そう呼ばれていたんですね。

佐藤さん  :なるほど、そうなんですね。 その後の文章で、「豚屋横丁の中頃の狭い急坂の路地を左に折れた奥に二階建ての借家が平岡家であった」とありますが、左に折れた”奥”となっていますので、これはもしかしたら不正確なのかもしれませんね。(見当では道に面している角地)

佐藤さん  :私が鈴木先生に教わったことをメモしたのがこれです。

■三島由紀夫の生誕地

○2016年3月31日、鈴木眼科の鈴木武徳氏から教示(電話で)。
鈴木武徳……昭和12年8月2日生まれ。名前を論文に書いてもよい。直接、平岡家のことは知らないが、兄が二人いてよく知っている。母親が三輪田女学校出身で、倭文重(しずえ)とつながりがあった。 子ども(公威)を近所の子と遊ばせない。お婆さんの言いつけだと聞いていた。沼尻地図では、単に「医院」とあるのが鈴木氏の実家。歯科医。現在の鈴木氏は、眼科医。別の所にクリニックがある。昭和18年に縁故疎開で小田原に行き、昭和20年5月の空襲でこの辺りが焼けたのを後に知った。見に行くと、塀が残っているくらいだった。

○三島由紀夫の生誕地。沼尻地図で「○○○」という家。ここがかつての平岡家。借家。

○道の突き当たりにお稲荷さんがあった(いまでもあるかも知れない)。

佐藤さん  :これが、いまは遷(うつ)されてそこにあるお稲荷さんでしょうか。

HP委員  :そうです。 田安鎮護稲荷の事だと思います。

坂部さん  :いまの場所は3箇所目です。その最初の場所も戦災で焼けてしまって、お神輿も焼けてしまったんです。

HP委員  :それにしても鈴木先生はよくそこまで覚えてらっしゃいましたよね。

佐藤さん  :そうなんです。 情報元の鈴木先生のお母様と三島由紀夫の母親と同じ学校(三輪田)というのは、かなり繋がりの濃い話で、これだけでも決定としていいくらいの信憑性があると私は思っています。 鈴木先生にはお兄さまが2人いて、ひとりはアメリカで亡くっているけれども、もうひとりのお兄さまがよく知っているとの事で、そこはセカンドオピニオンとしてお話を聞ければとは思っているのですけどね。

HP委員  :その鈴木先生のお兄さまは今どちらにおられるのですか?

佐藤さん  :それはまだよくわからなくて、私も最初の話を聞くのに精一杯でして。

HP委員  :鈴木先生も本当は来たがっていたのですが、ちょっと都合が合わないようでして。 これは私達で取材してフォローしようと考えています。

HP委員  :三島由紀夫の「仮面の告白」での記述にある、坂の上から2階建、坂の下からは3階建といったこの「坂」とはやはり田安通りの坂のことなのでしょうか。



佐藤さん  :それがですね、私にもはっきりと分からないのですよね。 「仮面の告白」をもう一度読みますね。

『仮面の告白』の記述(『決定版全集』第1巻)p.177
かうして私が生れたのは、土地柄のあまりよくない町の一角にある古い借家だつた。こけおどかしの鉄の門や前庭や場末の礼拝堂ほどに広い洋間などのある、坂の上から見ると二階建でありながら坂の下から見ると三階建の、燻んだ暗い感じのする、何か錯雑とした容子の威丈高な家だつた。暗い部屋がたくさんあり、女中が六人ゐた。祖父、祖母、父、母、と都合十人がこの古い箪笥のやうにきしむ家に起き伏ししてゐた。


佐藤さん  :この他にも、糞尿汲み取り人の記述の所にも坂が出てきます。 夏祭りの一段の部分もそうです。
「仮面の告白」は三島由紀夫の代表作で、その作品にこれだけ書かれているのにもかかわらず、どこだか分からなかったんですよね。

佐藤さん  :それから「私の永遠の女性」という婦人公論に載せた文章があるのですが、そこには、三島は中学時代に鏡花に傾倒して、「紫陽花」という文章を書いたとあります。そこにこんな家だったというのが描写されているんです。 この「紫陽花」というのが、15歳頃の作品だというのですが、これは最近出てきたものなのです。 三島の家に沢山のメモやら紙切れやら原稿用紙などがありまして、それを山梨県の山中湖村が買い取りまして、三島由紀夫文学館というのを建てまして、その沢山の資料を整理していたら、この「紫陽花」というのが出てきたんです。 泉鏡花ふうのくにゃくにゃした文章で、門がこっちにあって、煉瓦塀があって、樫の木が植えてあって、などと書いてあるのですが、正確に書いてあるかどうかもちょっとわからないのです。 それと、こちらははっきりと書かれているのですが、

「紫陽花」(「昭和十五年一月三日」の日付がある)(決定版全集26巻p.44)
《隣が松村さんといふ家で、そこからはもう坂の途中、家より一段低い、前栽が生ゆるがまゝに生ひ茂つて、手入れも行届かぬ広い庭の、女主人は床に臥せつてゐるとか。》


佐藤さん  :ここにも坂が出てきます。 やはりこの坂というのは、家の前の現在の田安通りの坂の事を言っているのではないかと思うんです。

HP委員  :ここまで情報がありながら、今まで生家が特定出来なかったというのは意外ですよね。

佐藤さん  :そうですね、ただこの「紫陽花」が発見されたのは2000年以降ですので、その発見した時にちょうど三島由紀夫全集を作っていたもので、これも入れましょうという事になったんです。 なので、発表するだけで精一杯でして、誰も細かく検証出来なかったというのが実際だと思います。

HP委員  :三島由紀夫というのは、やはり小さいころから自分の文章を書き留める癖≠フようなものがあったのでしょうか。

佐藤さん  :ありました。 三島由紀夫は体が弱かったものですから、自然に絵本を読むといった事が多くなって、そのうちに文章を書きだして、中学校に入る頃にはめきめきと腕を上げまして、学校でも文章を書かせたら平岡だと一目置かれていたそうです。 高等科に入ると、もう断然群を抜いて、といった感じです。 ですから子供の頃から創作をしていたようですね。

HP委員  :そろそろ現場の方へ行ってみましょうか。

佐藤さん  :そうですね。 行きましょう。


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■いざ現地へ

珈琲店での取材の後、全員で三島の生誕場所と思われる場所へと向かいました。

現地付近へ着くと、そこは昔の面影は無く、整然とマンション、アパートが立ち並んでいました。 ただ、建物の隙間をみてみると、その当時に古い塀の基礎や石垣が残っていたりと、新しい発見もありました。
 




■三島由紀夫生誕の地

三島家と思われる地には、マンションが建っていました。 敷地としては奥行きもかなり有り、広さは結構あったものと推測できます。 まさしくここに平岡家の洋館があり、そこで三島由紀夫が生誕したのです!

その後、何枚か写真を撮り、近々に鈴木眼科の鈴木さんの裏付け取材を我々がする事を約束し、佐藤さんとは解散となりました。 
あとは鈴木先生にお話を聞いて裏を取れば、ほぼ決定ということです。


■鈴木先生との取材

後日、我々は鈴木眼科の鈴木先生との取材を行いました。 先生はまだまだお元気で、日々を精力的に行動しているといった感じでした。 あらかじめ佐藤さんから地図等の資料を頂いていたらしく、とても順調にお話することが出来ました。 

鈴木先生に実際にお話を聞くと、当時の記憶はしっかりと覚えておられました。  
先生が物心ついた当初は既に三島家ではなく、○○○さんのお宅へと変わっていたそうですが、建物はそのままの洋館だったそうです。 鈴木先生はその○○○さんのお宅に一度遊びに行ったことがあるそうです。

そして、まさしくこの家が三島由紀夫の家(平岡家)だということを鈴木先生は覚えていました。



先生の記憶によると、入り口は現在の田安通り側に面していて、車が入れるくらいの大きな門だった、しかしその門は普段は開かずの門で、その横の通用門から出入りしていた。 門を入ると庭があり、見るからに日本のものではない植物が植わっていた。 たしか池もあったのではないかということです。 建物にはガラス張りの温室のようなものがあって、敷地の周りはコンクリートの塀で覆われていた。(昭和17,18年) 鈴木先生は昭和12年生まれなので、三島由紀夫(昭和8年まで在住)との直接的な接点はありませんが、兄や母親からその話は聞いていたそうです。


■生誕の地、確定へ

これで三島由紀夫の生誕の地は確定できたと言っていいと思います。
これまでの取材で三島由紀夫の生誕地が確定出来たのは、本当に嬉しい結果ですが、その事実と共に、たくさんの色々な人々がこの四谷四丁目に暮らし、関わってきた事が新たに分かりました。 当委員会も、まだまだ議題が尽きることはなさそうです。 今回の1通のメールから、本当に貴重な体験をしたと思っております。 佐藤秀明先生、鈴木武徳先生、ありがとうござました。 





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