四谷四丁目HP作成委員会
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 前回に引き続き、坂部四谷四丁目町会長をお招きして、お話しを伺いました。 今回は、戦後の復興と四谷四丁目の歩みについてです。たいへん興味深い、貴重なお話しが多々ありましたので、一部ではございますが、その内容を掲載させていただきます。

〜戦後の復興と四谷四丁目の歩み〜
 去年の11月に、四谷小学校の6年生を対象に、空襲で焼け野原になった四谷の町が、今日どのように繁栄してきたか、どのようににぎやかな町になっていったのかについて話しをしてきました。 社会科の勉強の一環なんですかね。子供たちも真剣に聞き入って、相当質問も出ました。 私がこの町に引越してきたのは、終戦の翌年、昭和21年2月でした。 墨田区向島の下町に育ったのですが、昭和20年3月10日の東京大空襲(注1によって、住む所も、行く所も無くなってしまいました。 両親は茨城県の笠間市に疎開しましたが、私は大学に行ってましたので、どこか下宿をしなければならない。 そこで戦前からお付き合いのあった銀座木村屋のご隠居さんが、成女学園の上あたりにある自証院(注2という寺の離れに住んでいましたので、そこへ頼って行きました。 当時、私は19歳と若かったので、いいように使われていましたよ。 大空襲で、一面焼け野原の状態の中、その頃残っていた建物は、鉄筋の建物だけでしたね。 四谷第四小学校(現四谷ひろば)、四谷警察署の昔の建物、四谷特別出張所(現四谷地域センター)等は残ってましたね。 四谷特別出張所(現四谷地域センター)に水道局もありました。 そこは皆さんご存知のように、玉川上水(注3の終点地であり、半分は渋谷川に流れ、もう半分は地下から東京各地に流れていきました。 あと伊勢丹や今は新宿御苑前に四谷消防署の分室がありますが、当時は病院でしたが壊れず残ってましたね。 翌年になり、両親ももう下町、向島は嫌だと、私も将来があるので、どこかに土地を買おうとなって、今の家に引越して来たわけです。 














木村屋のご隠居さんが、5分以内でうちに飛んで来ることができる所を探せということで、ちょうど自証院から見下ろす位置の今の家の所を買ったわけです。 ただ当時は、焼け野原で地主も現地にいるわけではない、土地の境界線も正確に確認できないこともあって、各地で土地問題は揉めていたのではないでしょうか。 東日本大震災で被災された方がいまだに実家に帰れず、仮設住宅や別の場所での生活を余儀なくされている事は本当にお気の毒で、ご苦労が堪えないことと思いますが、当時は、家を建てるにも、お金が自由に使えない時代でしたから、皆さんバラック(注4に住んでましたよ。 それはもう厳しい 環境でした。 何しろ焼けトタンを集めてぼろ家を造って、何とか凌いでいたのですから。 学校だって通いたくても通えませんでしたからね。 お金は、自由に使える金額は5万円まででした。 それ以上は個人では使えませんでした。 当時は私の家から新宿通りを走る都電が見えましたよ。 それくらい回りに高い建物はなかったし、家もなかったですね。 その後、まず表通りの新宿通り沿いから、商売をされている方が、お店とともに家を建てられて行ったと思いますが、通りも狭かったので、何度となく道路の拡張工事をしていましたね。 
 東京オリンピックの前と後では、町の状況が道路の広さや家の数、ビルの建築など大分様変わりしてきたのではないでしょうか。 戦前は、まだ四谷永住町や塩町二丁目・三丁目といった名称で、四谷四丁目はなく、町会組織も存在せず、いわゆる空襲などがあった時に助け合う隣組制度(注5がありました。 それを母体に万一災害が生じた時の為の警防団が組織化され、町の有力者が関わっていました。 終戦後は、隣組も警防団も無くなり、自由に民主主義の時代になって、新しく町会という組織が出来てきました。 四谷四丁目町会が発足したのは、昭和23年(1948年)のことです。 新宿区が発足したのは、前年の昭和22年(1947年)でした。 新宿区の前身は、四谷区で、そもそも四谷という地名は江戸時代からありました。 左門町にある於岩稲荷(注6ですが、その話しのもととなったのは、鶴屋南北が書いた「東海道四谷怪談」(注7ですが、これは南北が考えた劇作であり、お岩さんは実在はしていたものの、話しの内容が本当かどうかは、定かではありません。 ですから南北は話しに写実味を帯びないよう、逃げを打つ為に本来であれば、「甲州街道四谷怪談」というべきところを、「東海道四谷怪談」と命名したのでしょう。  
 道路拡張に一番お骨折りになったのは、(七代目四丁目町会長の)小林十七八さんでした。 整理組合を発足して、お隣の四谷三丁目も整理組合を造りました。 三丁目の交差点に整理組合の碑が立っていますが、土地を共同で買ったりしました。 終戦の昭和20年から東京オリンピックが開催される昭和39年までの19年間に道路の拡張や不燃化の建築基準法に基づいた建物が増えてきましたね。 東京オリンピックは本来であれば昭和15年に開催されるはずでしたが、戦争でできませんでした。 それから昭和39年再び開催されることになり、開催が決定した昭和31年頃から急激に町が復興し発展してきました。 大正12年の関東大震災の時は、下町のダメージが大きく、被災者の中には、四谷に避難された方も多かったようです。 皇居を境に東と西で、下町と山の手に分かれ、下町育ちの私にとっては、四谷は憧れの町でした。 曙橋(注8が開通したのは、昭和32年でしたね。昭和15年頃から工事を始めたのですが、戦争が始まり、橋を造るのに鉄を使うなら鉄砲玉に使えということで、工事が中断しちゃったんですね。 靖国通りも市ヶ谷から新宿に抜ける道が通れませんでした。  今の成女学園下の交番付近からで、右側の東京医科大学に抜ける道と、左側の源慶寺と長善寺前の四 谷大木戸に抜けるみょうが坂の通りは通れましたが、真中の新宿に抜ける安保坂は通れませんでしたね。 戦後しばらくは、新宿追分だんごのあたりまで、京王電車(注9が走ってましたよ。 追分だんごから南口の坂を上って甲州街道を走ってました。 戦後の焼け野原では、全て焼けてありませんから、当然風呂もありません。 銭湯ができるまでの間は、洗濯のたらいで、行水をしてましたね。 お湯を沸かしてたらいに入れ、その一杯のお湯で体を洗い流してましたよ。 戦争が終わった時は、20歳でしたので、負けて悔しいという感情よりも、あ〜もう兵隊にいかなくて済んだという、安堵の気持ちの方が強かったですね。 私は男三人兄弟の三男坊で、上の兄二人は兵隊に行ってましたので、母親は、あなたまで兵隊に行ったら誰もいなくなっちゃう、だから兵隊に行く日が1年でも2年でもいいから延びてほしいと思っていました。 当時、文科系の学校は学徒出陣(注10で兵隊に行くことになっていました。 理科系は徴兵延期というのがありました。 私は、旧制の東京写真工業専門学校、今の東京工芸大学に通っていました。 小西六写真工業株式会社というフィルム会社が今の淀橋の中央公園あたりにあったのですが、そこに入れば、22歳までは兵隊に行かなくて済みました。 通常は20歳で徴兵でしたからね。 昭和18年10月12日に雨の降る中、神宮外苑で学徒出陣がありました。 各大学の学生達は鉄砲を担いで、観覧席には東京都内の女学校から女子大生がいて、私も当時、中学三年生でしたから観覧し、送別をしました。  総理大臣は訓示で、「ペンを捨てて、銃を持ち、戦地に行って、お国の為に死ね」と言いましたが、その言葉は今でも許すことはできません。 戦争が終わっても二人の兄は帰ってきませんでした。 親はたいそう落胆しました。  ですから母親は、私には、戦地に赴かないようにと、またせっかく技術系の大学に入って、しかも写真のことも勉強しているんだからと、当時、技術将校は戦争に行かなくて済むわけですね。 研究室で新兵器の開発を任されたりしていましたので、そういった道を進むようにと、技術委託制度の試験を受けたら、陸軍に合格しました。 爪入りの学生服に星の陸軍のマークをつけると、月々たいした金額ではないのですが、学習補助が出ました。 その後卒業して、陸軍に入りますと、2ヶ月間幹部候補生として勉強させられるのですが、今でこそ、学校での教師の体罰が問題になっていますが、昔の軍隊は殴って、殴って教え込むわけですからね。 まあ殴られても2ヶ月間だと思って、我慢しようと思っていたら、終戦になって、結局は行かずに済みました。 2番目の兄貴は体に恵まれ、当時の日本体育専門学校に行って、水泳の先生になるんだって張り切っていましたよ。 予備学生になりまして、すぐ少尉になれるところだったのですが、特攻隊として、ろくにガソリンも積まずに出征していきました。 私は、中学三年生の時に知覧(注11の飛行場に行き、見送りに行きました。 兄貴は士官だったので、先祖代々伝わる軍刀を持たせようと思ったんですが、兄貴は、もうこれで帰ってこないし、先祖代々のものなので、親父に返しておいてくれと言って飛び立って行きました。 それから2時間後ですか、名誉の戦死の報をいただきました。 そうやって若い人が随分死んでいってるんですね。 だけどそんな悲壮な感じはありませんでしたね。 特攻隊が飛び立つ時も、何かその辺をドライブしてくるような感じで行きましたね。 そういうことも経験してきましたから、戦争が終わった時にはほっと安堵しました。 そして、両親は私が看なきゃいけないのかなと、私は親父が40歳の時に生まれた末子なので、終戦の時、私は20歳で、親父は60歳でしたので、事業もやれないし、田舎にくすぶっててもしょうがないということで、一緒に四谷に引っ越してきました。 私は昭和22年に学校を卒業したんですが、木村屋のご隠居さんは、どっちみちうちにきてくるものだと思っていたようなんですが。 私は映画に興味を持ち、東宝に入りたいということで、あそこには研究所があるので、そこで仕事がしたいんですとご隠居さんに言ったら、ご隠居さんは、そういう志があるなら行きなさいと、但し自証院から5分以内のところに住居を構えろと言われて、今の家に住みだしたわけです。 東宝に入社して、25年いました。 華やかな舞台の仕事ではなかったのですが、白黒フィルムのカラー化をする仕事で、日本では、なかなかいい色が出ないので、イーストマンカラー(注12の技術の勉強をしました。 ただその後、テレビの台頭で、映画は斜陽化の一途を辿るのですが、その頃のテレビを映画人は何て言っていたと思います?。 ‘電気紙芝居’って言って、ばかにしてたんですよね。 あんなのは俺達と違うんだから、何て言ってましたが、どんどん立場が逆転してしまいました。 昭和47年に東宝を辞めて、自宅の1階を写真スタジオにして、自分で商売を始めました。 そしたら、(八代目四丁目町会長の)中島精司さんが、せっかく地元で商売するんだったら、町会に入りなさいと言われて、顔を出すようになりました。 (当時四丁目にいらした)西田さんや川村さんと言ったお祭りの好きな方と3人で書記をしてました。 当時の(二代目四丁目)町会長は、伊達正次郎さんで、次ぎは(三代目四丁目町会長)鈴木信恵さんでした。 それからずっと町会に携わってきました。 それと共に町も復興、発展を遂げてきました。 昭和23年、四丁目町会が発足してから、まず行ったのがお祭りです。 しかし当時、須賀神社はお社とお神輿は焼けて何も無い状態でした。 町会神輿も同様に焼けてありませんでした。 町神輿は、現在は須賀神社に保管してありますが、以前は一時期、田安鎮護稲荷神社(注13の祠とともに、食肉店の越水商店の前(現在の四丁目3番地あたり)に保管されていたこともありました。 その後、田安鎮護稲荷神社は四丁目22番地に移築しましたが、その創建を請け負ったのは、(四丁目13番地に住んでいた)宮内正一郎さんで、井上利三郎さんが造りました。 とても腕のいい職人さんでした。 (七代目四丁目町会長の)小林十七八さんが町会長の時に田安徳川家から、10代当主(徳川達成(さとなり)氏)の次男にあたる  










徳川宗賢(むねまさ)氏(注14 が初めてお詣りに来られました。 明治維新後、田安家の下屋敷を明治政府に上納することになり、明治4年(1871年)5月に家屋を撤去したのですが、稲荷社だけはそのままにしてありました。 翌年、跡地に町屋ができ、四谷永住町(注15と名づけられ、以来140余年、代々この土地に住む人たちが大事におまつりをしてきました。 稲荷だけを残して、出て行ってしまったもんですから、分霊をしたいと取りに見えて、その時に徳川家の定紋つきの幕一張が奉納されました。 いわゆる三つ葉葵の紋所(注16をつけることを許されたんですね。
 
   昭和23年(1948年)に町会が発足して、お祭りをやったのですが、当時は御神輿が無かったので、(四丁目28番地に住んでいた)萩原元吉さんが造って、子供たちに担いでもらいました。 その後昭和25年(1950)に須賀神社の例大祭が行われ、その時に町内御神輿を新調しました。 お祭りはにぎやかで盛大でしたよ。 だんだん町内ごとに御神輿がそろってきて、表と裏、神社神輿の出る年と連合渡御の年が交互にあって。 連合渡御の時は18か町集まって、勢揃いは慶応病院の前でした。 慶応病院前からスタートし交差点を左折して四丁目に向かい、外苑西通りでUターンして、三丁目を通って荒木町の中に入ったりして、一回りして須賀神社に戻りました。 最後はもうくたくたでしたね。 最初は子供神輿もつけたので、総勢36騎が練り歩きました。 中には山車を引っ張ってきた人もいたりして。 担ぎ手もみんな町民の方でしたね。 表の神社御神輿の出る年は当時、神社神輿は2騎ありました。 今は、東宮御所(鮫河橋)から四ツ谷駅に向かっての登り坂は、担ぎませんが、当時は担ぎました。 明治時代もそうで、(勝海舟、高橋泥舟(たかはしでいしゅう)とともに幕末三舟と称せられた)山岡鉄舟(注17の屋敷が今の学習院初等科にあって、向かいの仮皇居(今の迎賓館)には明治天皇が住んでいました。 山岡鉄舟の日記には登り坂を下から、御神輿を担ぐ声がして坂を登りきった所で、家の門を開いて担ぎ手にお酒をふるまったと書かれていました。 (七代目四丁目町会長の)小林十七八さんが町   会長の時代には、休憩場に担ぎ手に配るおにぎりを婦人部の方が作って、我々若手が運んだりしてましたよ。 町がだんだん復興していく原点には、お祭りがあったと思いますね。 大木戸公園にある国旗掲揚のポールは、東京オリンピックの時に使用したポールなんです。 オリンピック委員会から新宿区に払い下げされたポールなんです。 今年の元旦には、新宿第4団のボーイスカウトの方たちに、国旗掲揚をしてもらいましたが、来年以降もお願いしたと思っています。 元旦祭で、国旗掲揚している町会はこのへんだと、四丁目町会だけだと思いますよ。 明治5年(1872年)に四谷永住町が職人町として成立しましたが、明治10年(1877年)に我が国で初めて、国内万国博覧会(第1回内国勧業博覧)(注18が上野の山で開催されました。 当時は西南戦争の最中で、西郷隆盛と同郷で内務卿であった大久保利通が主催したものでした。 言わば万国博覧会の国内版ですが、その時に四谷永住町の職人が出品したのが、「針」と「足袋」でした。 見事銅賞を受賞しました。 こういった事もあり、四谷永住町は職人の町でもありました。 ご存知のように皇居は以前、江戸城(注19であったわけですが、本丸のあったところに大奥がありました。 北の丸は今の武道館がある所、西ノ丸は二重橋を渡った所になります。 北ノ丸は将軍の死後、正室が住んでいました。 西の丸は、次の将軍候補が住んでいました。 みんな火事で焼けてしまったんですけどね。 現在、皇居に吹上御苑(注20がありますが、天皇、皇后の御所がある所です。 そこは森になっていますが、武蔵野の面影を残しています。 その中の竹林があるのですが、それは四谷の孟宗竹を持っていったものなんですね。 (以上)

 平成25年2月18日(月)19時00分〜21時00分  於:しいな不動産 地下1階 応接室
 出席者:坂部四谷四丁目町会長、HP委員(小林 根岸 椎名 竹田 宮内)


補足説明

注1:東京大空襲 (とうきょうだいくうしゅう)は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍により行われた、東京に対する焼夷弾を用いた大規模爆撃の総称。 東京は、1944年(昭和19年)11月14日以降に106回の空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模であった。 その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上と著しく多い1945年3月10日の空襲を指すことが多い。 都市部が標的となったため、民間人に大きな被害を与えた。)


注2:自証院  自証院は、寛永17年(1640年)、尾張藩主徳川光友の夫人・千代姫の母、自証院を供養するために創建された寺。 最初は日蓮宗で本理山自証寺といったが、元文年間(1736-41)に天台宗に改宗された。 古くは桜の名所であったという。 また寛政12年(1800)、尾張藩の寄進により建立された堂塔の用材が良否を問わず槍の節目が多いものを用いたため「ふし寺」「瘤寺」とも呼ばれた。 明治時代末期、この付近に住んでいた文学者小泉八雲が自証院の風致を好んだが、杉の木を切り倒す音を聞いて、杉の木がかわいそうでいたたまれなくなって転居した話は有名である。 境内には、弘安6年(1283)の銘のある区内最古の阿弥陀三尊種子板碑などがある。 (新宿区の文化財史跡ガイドブックより))



注3:玉川上水  玉川上水(たまがわじょうすい)は、かつて江戸市中へ飲料水を供給していた上水(上水道として利用される溝渠)であり、江戸の六上水の一つである。 また、一部区間は、現在でも東京都水道局の現役の水道施設として活用されている。 羽村取水堰で多摩川から取水し、武蔵野台地を東流し、四谷大木戸(現在の四谷四丁目交差点付近)に付設された「水番所」(水番屋)を経て市中へと分配されていた。 水番所以下は木樋や石樋を用いた地下水道であったが、羽村から大木戸までの約43キロメートルはすべて露天掘りであった。 羽村から四谷大木戸までの本線は武蔵野台地の尾根筋を選んで引かれているほか、大規模な分水路もそれぞれ武蔵野台地内の河川の分水嶺を選んで引かれている。 1722年(享保7年)以降の新田開発によって多くの分水(用水路)が開削されて武蔵野の農地へも水を供給し、農業生産にも大いに貢献した(代表例、野火止用水、千川上水))


注4:バラック  日本において、通常の建築物(バラックに対して本建築という)は構造的に数十年以上もたせる前提で設計され、材料を選び、十分な基礎工事を行うなどして建てられる。 しかしバラックは、当面の間に合わせであり、材料も上質なものは用いず、簡易な構造で造られる。 困窮した人々が空き地などに小屋程度のものを建てて住み着くことはしばしば見られることである。 河原などにホームレスなどが造るテント小屋、段ボールハウスもバラックと呼ぶことがある。 また海外(特にアジア)では、未だにバラックの住居がみられ、貧困にあえぐ様子が窺えることがある。 日本では関東大震災等の天災や、東京大空襲等絨毯爆撃を受けた後に、トタンや有り合わせの木材、破壊されなかった建築物を組み合わせ、雨露をしのぐ程度のバラックが大量に建てられた。 これらは震災・戦災後という非常事態に対し応急的に発生したバラック建てであった。 関東大震災後には、市街地建築物法(現在の建築基準法)の規定に従った建築を行っていては住居の供給が間に合わないため、特別立法(いわゆるバラック令)により基準を満たさない建築物でも建てることが認められた。 第二次世界大戦の終戦後には、外地からの引揚げ者も多く、建物疎開跡の空き地などの土地に不法に建てられたバラックが多数に上った。 色々な街に興った闇市の商店も、その一つである。 闇市から発展したアメ横、秋葉原電気街、新宿ゴールデン街などの店舗の中には、当時のバラックを思わせるような狭い間口で奥行きの無い店が見られる。 


注5:隣組制度  隣組(となりぐみ)は、日本の昭和期において戦時体制の銃後を守る、国民生活の基盤の1つとなった官主導の隣保組織である。 国家総動員法、国民精神総動員運動、選挙粛清運動と並び、前年に決定し、1940年(昭和15年)に内務省が布告した「部落會町内會等調整整備要綱」(隣組強化法)によって制度化された。 5軒から10軒の世帯を一組とし、団結や地方自治の進行を促し、戦争での住民の動員や物資の供出、統制物の配給、空襲での防空活動などを行った。 また、思想統制や住民同士の相互監視の役目も担っていた。 第二次世界大戦、太平洋戦争の敗戦後の1947年(昭和22年)、GHQにより解体された。 現在でも、回覧板の回覧など、隣組単位で行なわれていた活動の一部は、町内会・区(政令指定都市の区ではない)・自治会に引き継がれている。 地方によっては、単身者や核家族が居住するワンルームマンションの増加など、近隣地域と住人の関係が疎遠になる例もあり、地元神社の氏子への加入や、祭礼の寄付などをめぐり問題を生じている地域もある。 隣組や町内会のような活動が廃れた一因に、その活動単位が政府の言うところの所謂標準世帯での活動を主眼においたものであり、現役世代の単身者や多忙な共稼ぎ世帯などには負担が大きすぎることがあげられる。 )


注6:於岩稲荷  四谷(東京都新宿区左門町)に実在する「於岩稲荷」(於岩稲荷田宮神社)は、もともとは田宮家の屋敷社で、岩という女性が江戸時代初期に稲荷神社を勧請したことが由来といわれる。 岩の父、田宮又左衛門は徳川家康の入府とともに駿府から江戸に来た御家人であった。 岩と、婿養子となった伊右衛門は仲のよい夫婦で、収入の乏しい生活を岩が奉公に出て支えていたという。 岩が田宮神社を勧請したのち生活が上向いたと言われており、土地の住民の信仰の対象となった。 現在、四谷の「於岩稲荷」の社は於岩稲荷田宮神社陽運寺の2箇所にある。 於岩稲荷田宮神社は明治12年(1879年)の火災によって焼失して中央区新川に移った。 新川の於岩稲荷田宮神社は戦災で焼失したが戦後再建され、また四谷の旧地にも再興された。 四谷怪談の基になった実話については、四谷の於岩稲荷に文政10年(1827年)に記録された文書が残されている。 お岩稲荷の文書によれば、四谷に住む武士・田宮又左右衛門の娘、お岩が浪人の伊右衛門を婿にとったが、伊右衛門が心変わりして一方的にお岩を離縁したため、お岩が狂乱して行方不明となり、その後田宮家で変異が相次いだため、田宮邸の跡地にお岩稲荷を建てたというものである。 これが現在の田宮神社である。 現在その向かいの陽運寺にもお岩は祀られている。 また、お岩のお墓は巣鴨の妙行寺にある。)


注7:東海道四谷怪談  『東海道四谷怪談』(とうかいどう よつやかいだん)は、鶴屋南北作の歌舞伎狂言。 全5幕。 文政8年(1825年)、江戸中村座で初演された。 南北の代表的な生世話狂言であり、怪談狂言(夏狂言)。 『仮名手本忠臣蔵』の世界を用いた外伝という体裁で書かれ、前述のお岩伝説に、不倫の男女が戸板に釘付けされ神田川に流されたという当時の話題や、砂村隠亡堀に心中者の死体が流れ着いたという話などが取り入れられた。 岩が毒薬のために顔半分が醜く腫れ上がったまま髪を梳き悶え死ぬところ(二幕目・伊右衛門内の場)、岩と小平の死体を戸板1枚の表裏に釘付けにしたのが漂着し、伊右衛門がその両面を反転して見て執念に驚くところ(三幕目・砂村隠亡堀の場の戸板返し)、蛇山の庵室で伊右衛門がおびただしい数の鼠と怨霊に苦しめられるところ(大詰・蛇山庵室の場)などが有名な場面となっている。 )


注8:曙 橋  曙橋(あけぼのばし)は東京都新宿区片町と荒木町との境界に位置する陸橋である。 外苑東通りの経路上に設置されており、靖国通りと立体交差を為している。 自動車はもちろん、両脇に歩道部分も設置されているため歩行者も通行できる。 曙橋は、旧四谷区と旧牛込区の境界(靖国通り)にある。 この境界部   分は谷状の地形をしており、四谷と牛込とを隔てている。 また付近には士官学校と東京陸軍幼年学校の広大な敷地(そのまま現在の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地となる)があり、四谷・牛込間の往来は谷底まで一度降りるか士官学校の敷地を大きく迂回する必要があった。 1920年代になり、陸橋建設が具体化した。関東大震災後の復興事業のひとつとして、四谷・牛込間を陸橋で結ぶ道路建設が計画された。 しかし今日の外苑東通りの原型となる道路は建設されるものの陸橋部分は戦争による資金不足で、そのまま長らく放置されることとなった。 昭和29年(1954年)になり新宿区総合発展計画推進会(新宿区の任意団体)が陸橋建設を提言し、ようやく建設着工の運びとなった。 名称は一般から募り、復興と成長を願う意味を込めた「曙橋」が採用された。 昭和32年(1957年)の開通時には、盛大な開通パレードが催された。 曙橋の完成により、四谷・牛込間の往来は非常に円滑となった。 また昭和55年(1980年)には都営地下鉄新宿線がこの地に開通し、曙橋のほぼ直下に地下鉄駅が建設された。 駅の名称は、この橋に因んで「曙橋駅」と命名された。 以後「曙橋」は、この地区の名称としても親しまれている。 )


注9:京王電車  京王電鉄は、1910年(明治43年)4月12日に武蔵電気軌道が京王電気軌道株式会社と改称し、9月21日に資本金125万円で設立された。 1912年(明治45年)8月から調布町・多磨村・府中町・西府村(いずれも当時の行政区分)に電気供給を行っていた。 1915年(大正4年)5月30日には新宿追分駅   - 新町駅間が、1916年(大正5年)6月1日には調布駅 - 多摩川原駅(現・京王多摩川駅)間が、10月31日には調布駅 - 府中駅間が延伸開業した。 新宿追分駅は伊勢丹の先の新宿3丁目にあった。 櫛形の4面3線の駅だった。 そこを出ると今の明治通を渡り省線の線路を跨ぐ坂を上り、新宿駅甲州口の前にあった省線新宿駅前という停留所に停まる。 安全地帯形式の低いホームで乗降口の下にさらに1段ステップが出るようになっていた。 小さい駅舎が省線とは反対側の歩道にあって切符を買うことはできた。 戦争末期に天神橋の変電所の罹災で電圧が下がって省線新宿駅の上の坂を電車が登れなくなり、1945年(昭和20年)7月24日西口に新宿駅が移った。 )


注10:学徒出陣  学徒出陣(がくとしゅつじん)とは第二次世界大戦末期の1943年(昭和18年)に兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍する20歳以上の文科系(および農学部農業経済学科などの一部の理系学部の)学生を在学途中で徴兵し出征させたことである。 日本国内の学生だけでなく、当時日本国籍であった台湾人や朝鮮人、満州国や日本軍占領地、日本人二世の学生も対象とされた。 第1回学徒兵入隊を前にした1943年(昭和18年)10月21日、東京の明治神宮外苑競技場では文部省学校報国団本部の主催による出陣学徒壮行会が開かれ、東條英機首相、岡部長景文相らの出席のもと関東地方の入隊学生を中心に7万人が集まった。 出陣学徒壮行会は、各地でも開かれた。 学徒出陣によって陸海軍に入隊することになった多くの学生は、自身の学歴をいかし、陸軍の幹部候補生、特別操縦見習士官、特別甲種幹部候補生や、海軍の予備学生、予備生徒として、不足していた野戦指揮官クラスの下級将校や下士官の充足にあてられた。 学徒兵の総数は13万人に及んだと推定される。 )


注11:知覧  知覧は、鹿児島県薩摩半島にあり、太平洋戦争末期、陸軍の特攻基地が置かれた町であった。 特攻平和会館は、その当時、人類史上類のない爆装した飛行機もろとも肉弾となり敵艦に体当たりした陸軍特別攻撃隊員の遺影、遺品、記録等貴重な資料を収集・保存・展示してある。 当時の真情を後世に正しく伝え、世界恒久の平和に寄与するものです。 二度と悲劇が繰り返されぬよう、戦争の悲惨さ、平和・命の尊さを教えてくれる。 )


注12:イーストマン・カラー  イーストマン・カラー(Eastman Color )とはイーストマン・コダック(現・コダック)社が1952年に発表した映画用の一本巻のネガ・カラーフィルムである。 メトロ・ゴールドウィン・メイヤーではメトロカラーと称した。 35mmのフィーチャー映画製作に用いられ、1950年代半ばまでにはテクニカラーが開発・完成させた先発の三色分解ネガシステムを駆逐してしまった。 その主な理由はイーストマン・カラーは通常の白黒カメラで使用可能であり、システムも簡単でより安価であったからである。 イーストマン・カラーは今日でも主要なカラーフィルムとして使われ続けている。 初期のイーストマン・カラーには褪色が生じたが、改良によりこの問題は軽減した。 )






注13:田安鎮護稲荷神社  田安稲荷神社は、徳川8代将軍吉宗公の次男宗武が、享保14年(1729年)田安家の家祖となり江戸城北の丸に居を構え、今から257年前の宝暦6年(1756年)に江戸城西の要の「四谷」の地に下屋敷をつくり、田安神社をお祀りしたのが最初である。 その後代々の当主の崇敬をうけてきた。 明治維新後、下屋敷を明治政府に上納するため、明治4年5月広大な屋敷を撤去したが、稲荷神社だけは残された。 翌年、跡地に町屋が出来、四谷永住町と名づけられ、以来代々この町に住む人達が大事にお守りをしてきた。 鎮護稲荷神社は、柳生家下屋敷にあった小詞で、町の人々は田安神社と同じように大切にお守りし、戦後両社を合祀してお守りし、今日に至っている。 明治4年(1871年)に当地を上納して、撤去された田安家は、その後大田区内に居住され、10代当主の次男に当たる徳川宗賢氏が、昭和56年(1981年)10月18日、実に120余年ぶりに田安家として、お詣りに来られた。 その折、稲荷神社に徳川家の家紋つき幕一張を奉納された。 平成14年に、田安・鎮護稲荷神社が、四丁目22番地から現在の15番地に御遷座された。 )


注14:徳川宗賢 (とくがわ むねまさ1930年11月27日 - 1999年6月6日)は、東京府出身の言語学者・国語学者。学位は文学博士。 日本語の方言研究の第一人者であった。 田安徳川家10代当主(伯爵家)徳川達成(さとなり)の次男として生まれる。 学習院大学文学部文学科国文学専攻卒業。 学習院大学大学院人文科学研究科国文学修士課程修了。 大阪大学文学部教授を経て学習院大学文学部日本語日本文学科教授。 国語学会代表理事。 第21期国語審議会委員。 主な編著書に『日本人の方言』、『日本の方言地図』がある。 司馬遼太郎とも、対話「日本の母語は各地の方言」(『日本語と日本人』 中公文庫、のち『日本語の本質―司馬遼太郎対話選集2』 文春文庫)を行っている。 妻の徳川陽子は物理学者で東京工芸大学名誉教授。 娘の松方冬子は日本史学者、東京大学史料編纂所准教授。 )


注15:四谷永住町  (現]新宿区四谷四丁目) 明治5年(1872年)に四谷理性寺(りしようじ)門前・同東長寺(とうちようじ)門前を合せ、旧大和柳生藩柳生氏中屋敷、三卿の田安家下屋敷、理性寺・東長寺境内や近隣の武家地などを編入して成立。 成立時には東は四谷塩(よつやしお)町三丁目、南は同町および四谷内藤町、西は内藤新宿一丁目。 正保江戸絵図では町域の一帯は東から西へ三河岡崎藩水野忠善の下屋敷、久世三四郎与力屋敷、内藤弥三郎の下屋敷と続いていた。 沿革図書によると、延宝年中(1673―81年)には東から西へ酒井兵部・永井伝八郎・久世三郎右衛門の各屋敷、理性寺、内藤若狭守屋敷と続き、理性寺北に東長寺が位置している。 酒井兵部屋敷は正徳6年(1716年)には天野佐左衛門屋敷となり、文政10年(1827年)には南側が松平左兵衛督の中屋敷と小倉新左衛門の屋敷となって、同12年に柳生藩中屋敷となった。 永井伝八郎と久世三郎右衛門の屋敷は、そのほとんどが宝暦6年(1756年)に田安家の下屋敷となった(明治4年に上地)。 内藤若狭守屋敷は享保10年(1725年)に上地となり、翌11年から同12年にかけて12名の屋敷に分割された。 その後、明和5年(1768年)にはそのうちに内藤新宿名主・理性寺門前名主の預地ができ、安永6年(1777年)同地は代官支配の百姓地となった。 明治6年代官支配百姓地であった地は内藤新宿一丁目の飛地となったが、同24年に再び当町に編入された。 理性寺(現法華宗陣門流)は境内古跡並除地三千二一三坪。 承応3年(1654年)大久保越中守忠辰・甚兵衛尉忠陰兄弟が、父荒之助忠富母久世氏の菩提のために創立。 敷地は内藤若狭守重頼の下屋敷の一部であったが、久世氏が譲り受け、これを寄進した。 近代に入り、和田堀内(わだほりのうち)村(現杉並区)に移転した。 曹洞宗東長寺は境内拝領地二千二七七坪。 慶長7年(1602年)の起立といい、寺地は内藤修理清成組の組屋敷地割の余地を賜ったものと伝える。 嘉永元年(1848年)より境内西部を託法(たくほう)寺に貸している(沿革図書)。 )


注16:徳川家の三葉葵紋所  一般に徳川氏は葵紋であるのが定説化されている。 水戸黄門で「頭が高い、この葵の紋どころが目に入らぬか」という決め台詞が有名だ。 徳川家の三つ葉葵の原形は、二葉葵といわれている。 この二葉葵を紋章とするのは、だいたいが加茂明神信仰から出ている。 二葉葵は京都の賀茂神社の神事に用いられてきやもので、別名カモアオイともいわれる。 そして、加茂祭には必ずこの二葉葵を恒例の神事よして用いたことから、この祭を葵祭という。 このように葵は、加茂祭に用いた零草であるため、この神を信仰した人々がこの植物を神聖視し、やがて、これを家紋としたことは当然のなりゆきと言える。 『文永加茂祭絵巻』に、神事の調度に葵紋が用いられているのが見られる。 このころから家紋として用いたようだ。)

   
 



注17:山岡鉄舟  (1836―1888) 幕末・明治前期の剣客、政治家。 名は高歩(たかゆき)、通称鉄太郎、鉄舟は号。 天保(てんぽう)7年6月10日旗本小野朝右衛門の長男として生まれ、1855年(安政2)槍(やり)の師である山岡家を継いだ。 また千葉周作に剣を学び、のち無刀流を案出し春風館を開き門弟を教えた。    1856年講武所剣術世話役。 1862年(文久2)幕府が募集した浪士隊の取締役となる。 1868年(慶応4)3月戊辰戦争(ぼしんせんそう)の際、勝海舟(かつかいしゅう)の使者として駿府(すんぷ)に行き、西郷隆盛(さいごうたかもり)と会見して、江戸開城についての勝・西郷会談の道を開いた。 1869年(明治2)9月静岡藩権大参事(ごんだいさんじ)、1871年茨城県参事を経て、1872年6月侍従に就任。 ついで宮内少丞(しょうじょう)・大丞と進み、1881年宮内少輔(しょうゆう)となった。 子爵。 書は一楽斎と号して有名である。 勝海舟、高橋泥舟(たかはしでいしゅう)とともに幕末三舟と称せられる。 明治21年(1888年)7月19日没。 墓は東京谷中の全生庵(ぜんしょうあん)にある。  鉄舟は、剣・禅・書の達人として明治維新後の多くの人材に影響を与え、その中でも明治天皇の教育係として十年間仕え、日本の近代化(特に、精神教育や文化)に多大な影響を与えた。 また、徳川慶喜に仕え、幕臣として活躍した後に新政府の政治家として茨城県参事、伊万里県権令を歴任し、また明治天皇の教育係として十年間仕えたという功績は、世界的に非常に高く評価されている。 



注18:第1回内国勧業博覧会  殖産興業のために 開催期間:1877(明治10)年8月21日〜11月30日 場所 :東京上野公園 入場者数 :454,168人  1877(明治10)年の8月、西南戦争開戦の中、日本で初めての内国勧業博覧会の開場式が行われた。 本会は、日本が参加した1873年のウィーン万国博覧会を参考に、初代   内務卿大久保利通が推し進めたものである。 博覧会と銘打ったものは、以前にも存在したが、そのほとんどが名宝や珍品を集めて観覧させることが目的であった。 この博覧会は、特に「勧業」の二文字を冠していることからも明らかなように、出品物の中から殖産興業推進には不必要な"見世物"のイメージを厳格に否定し、欧米からの技術と在来技術の出会いの場となる産業奨励会としての面を前面に押し出している。 約10万平方メートルの会場には、美術本館、農業館、機械館、園芸館、動物館が建てられ、寛永寺旧本坊の表門の上には大時計が掲げられた。 また、公園入り口に造られた約10メートルのアメリカ式の風車(地下水汲み上げ用)や上野東照宮前から公園にかけての数千個の提灯が彩を添えた。 全国から集められた出品物は、前年のフィラデルフィア万博にならって大きく6つの部(鉱業及び冶金術、製造物、美術、機械、農業、園芸)に分類され、素材・製法・品質・調整・効用・価値・価格などの基準で審査が行われた。 優秀作には賞牌・褒状等が授与され、いわば物品調査と産業奨励が同時に行われていたと言える。 この博覧会では、紡織産業が多くの割合を占めたが、その中で最高の賞牌、鳳紋賞牌を与えられた臥雲辰致は、日本の特許制度を語る上でもよく挙げられる人物である。 勧業博覧会は日本の産業促進に大きな影響を与え、以後の博覧会の原型となった。 


注19:江戸城  江戸城は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった城である。 江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。 江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。 近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と日本最大の面積の城郭になった。 徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。 明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)となった。 以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。 その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。 南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。 国の特別史跡に指定されている。 )


注20:吹上御苑  (ふきあげぎょえん)は日本の皇居(東京都千代田区)・吹上地区にある御苑で、その多くは森林となっており、その中に御所等の建物が点在する。 地理上の位置は武蔵野台地の東端、海岸沿いの土地である。 現在は皇居の一部であり、道灌堀を挟み、旧西の丸地区の西側に隣接する。 主な建物として、昭和天皇、香淳皇后の御所であった「吹上大宮御所」、現在の天皇・皇后の住居である「御所」、「宮中三殿」などがある。 江戸城築   城後には番衆・代官衆や清洲藩の松平忠吉の屋敷地があり、その後は徳川御三家の大名屋敷が建築された。 1657年(明暦3年)1月明暦の大火で全焼し、当時財政難であった幕府はほぼ壊滅状態であった江戸復旧に際し都市の再建を優先。 このあたりは江戸城への類焼を防ぐための火除け地として日本庭園が整備される運びとなった。 明治維新では一時荒廃したが、江戸城に天皇が居住するようになると、庭園が再建され、さらにゴルフ場も建設された。 吹上御苑の転機となるのは1937年で、昭和天皇がゴルフ場の使用を止め、自然のまま残すように希望したため、以後森林が形成された。 隅々まで人の手が入った旧西の丸地区とは対照的に、手つかずとなった吹上御苑は、都心においては驚異的な、あたかも人工の原生林とも言える植生を形成、さながらビオトープの様になっている。 )


[編集・構成:宮内HP委員  監修:坂部健・HP委員会]  Copyright(C) 2007 Yotsuya-Yonchoume All Rights Reserved.